新著紹介
ハイゼンベルクの顕微鏡 ― 不確定性原理は超えられるか
著者:石井 茂 (日経BP社,2006年)

 

ハイゼンベルクの不確定性原理はあまりにも有名だが,小澤正直氏によって不確定性原理の定式化も物理的内容も定量的予言も変更されたことは比較的最近の出来事である.本書は,1927年にハイゼンベルクが不確定性原理を発見する前後から, 2002年に小澤氏が新しい不確定性不等式を確立するまでの歴史物語である.

本書の論点を要約すると,不確定性原理は「物体の位置を正確に測ろうとするとその運動量が乱される」ことと説明される.この原理を精密化するためにケナードとロバートソンが証明した不等式は「同じ状態に準備した多数の粒子の位置を測れば粒子ごとに測定値にばらつきがあり,同じ状態にある粒子について(今度は位置を測らずに)運動量を測れば測定値には一定以上のばらつきがある」ことを示しているが,「位置の測定が運動量を乱す」というハイゼンベルクの元々の意図を表してはいなかった.にも関わらず,ハイゼンベルクはケナード流の不等式を自分の意図を数学的に表したものと受け止め,以後,ケナード流の不等式が広まっていく.つまり,誤差と擾乱の関係が,統計的分散同士の関係にすり替えられていた.

小澤正直氏は,重力波の検出限界の研究を通じて,不確定性不等式の問題に気づき,ついにケナードの不等式に替わる,誤差と擾乱に関する正しい不等式を発見した.本書によれば,小澤氏が定説に疑問を呈して新しい答えを欧米の著名な学術誌に発表することにはかなりの困難を伴ったようである.

本書は量子論の発展史であるだけでなく,物理学を築いてきた人物たちの物語でもある.完成された教科書を読むだけではわからない,物理学者たちの生身の人間としての営みや葛藤も生き生きと描かれている.20世紀という激動の時代に翻弄され苦悩しながらもたくましく賢明に生きようとした人々の姿が描かれていて感銘を受ける.

本書は一般読者向けとしては申し分ない内容だが,物理の記述としては詰めが甘い箇所が散見される.例えば,本書 p.19 の相対論的エネルギーの表式がおかしい.文脈からすると静止エネルギーを差し引いた運動エネルギー



を書くべきである.そうすると p.24 で質量 100g のボールが時速100km で飛ぶときの運動エネルギーを 10の15乗J と計算しているが,上の定義式に従えば 40J である.

本書は人物伝として読んでも物理学の本としても読んでも,なるほど,そうか,そういうことだったのか,と思うところが多々あり,知的刺激に富む本である.物理学を専門としない読者に向けて書かれているが,読者が一通りの量子力学の知識を持っていれば面白さは一層増すことだろう.

参考文献
小澤正直:日本物理学会誌 59巻, p.157- (2004);
小澤正直:数学(日本数学会編集)61巻, 2号, p.113- (2009);
小嶋泉:数学 61巻, 2号, p.210- (2009).

 

評者:谷村省吾
日本物理学会誌 2009年10月号, p.787 に掲載.
追記:この本は大変よい本なのだが,明らかな誤植や,物理学的見地から見て間違いとしか思えない箇所が散見される.2012年に第2版が出されたものの,初版の誤りのすべてが修正されたわけではない.気が進まないが,物理学者として目をつぶっていられない誤りもあるので,正誤表を掲げることにした.(2012年3月 谷村)


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